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ヨムヨムエブリデイ

文字ファースト

朝晩、肌寒いくらいで、熱いコーヒーがぐんとおいしくなった。毎日朝食が楽しみ。
こないだの日曜日、友人とふたりでランチを食べに行って会計する際、店員さんが私の背後を見ながら、どうぞお連れのお子様にサービスです、折り紙セットかおえかき帳どちらかをお選びくださいと言った。得意満面な感じで勧めてくるので、いえ、子供はいませんと断りづらく、おえかき帳をいただく。店員さんが、ただ単に他の子連れ客と勘違いしただけなのだろうけれども、座敷わらし的な何かかもと、少し背筋がゾクッとした。

シャイニングみたいな表紙(写真荒木経惟)の町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』を読んだ。これは、NHKのカルチャーラジオで放送された連続講座を書籍化したもので、放送時にすでに聞いていた。マーチダさんは喋りがあまり得意ではないようで、声が小さいし、えーと、えーとが多くて話がなかなか先に進まず、ラジオを聞きながらすんごくイラついていた。内容よりもそのときのイライラ感が強く印象に残っているので、今回、印刷された文字が、あまりにもするする頭のなかに入ってくるのに驚いた。耳からより目から。自分は文字人間なのだなあと思い知る。何でも文字にしてくれ。そのかわり、独特の間や、もたついた口調が文字になるとすっかり消えている。北杜夫『遥かな国 遠い国』所収の「三人の小市民」が魅力的に紹介されていて、思わず読んで(読まされて)しまった。

みだれ読み読書ノート

二連休。仕事で、人と人との間に挟まって身動きがとれなくなることが続き(皆、好き放題言う、特におっさん)、こういう疲れが精神的に一番消耗するので、この連休は、もう誰とも会いたくないし、しゃべりたくもない。そんなところに台風である。まだ遠いし、直撃コースからは外れているが、早くもその影響か降ったりやんだり、時々土砂降り。おやつや食料を買い込み、布団の中でスライム化する。ああ極楽や。

まず、先週から読み継いでいたボリューミーな島田雅彦パンとサーカスを読み終える。新聞小説だからページターナーで後半は一気読み。女の役回りはハニートラップ要員なんですね。さて次読む小説はどれにしようかなあ、とあれこれ迷うこの時間が楽しい。次は……松浦寿輝『無月の譜』にする。これも新聞小説なんだ。気になっていた斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』を読む。これまで漠然と接してきた韓国文学にこんな歴史背景があったのかというのがわかってよかった。いったい今まで何を読んでいたのだろうと反省する。今年前半ちびちび読んできた津村記久子『やりなおし世界文学』は、雑誌やweb連載時に一度読んでいるので、今回はユーモラスな文章の細部をめちゃんこ楽しみながら読んだ。その『やりなおし世界文学』の新作というか、新作ではないけれど、週刊文春に掲載された書評
bunshun.jp
を読み、捕食的な人間関係に捕まる弱点を持っている自分もサリンジャーの『彼女の思い出/逆さまの森』は絶対に読むぞ!と思った。

2日間やりたい放題やったおかげでスッキリした。私のやりたい放題っていうのは、傍から見ると「ぜんぜん何もやっていない人」だろう。

ぼくが歌集を読んでいる場所

月曜日。モトーラ世理奈のような眠そうな目をして、いつものねじ式の人のポーズで朝礼に出る。

タイトルに惹かれて歌集『水上バス浅草行き』を鞄に入れ持ち歩いている。歌集や句集は、たまーに読むのだけれど、いまだにちゃんと読めている気がしない。短歌や俳句それぞれに解説的なエッセイが付いているものや、身辺雑記的エッセイの最後に短歌や俳句を添えているものなどは楽しく読めるのに(結局エッセイが好きなのだ)、歌や句だけが並ぶ歌集や句集は、何だか構えてしまう。お小遣いを手に書店の文庫本コーナーの前で長い時間をかけて一冊選んでいくのが楽しみだった子供のころ、同じ値段だったら、小さい文字がぎっしり詰まった、一文字あたりの単価が安い本のほうが長く楽しめてお得感があって嬉しかった。その感覚がまだどこかに残っていて、余白だらけの歌集や句集を見ると「余白がこんなに!字がデカッ!」と不安になるのかもしれない。文字の貧乏性。

以前、春日武彦が、風邪で寝込んだときには句集を読むのがいいと何かに書いていたので、ワクチンの副反応で発熱した際に読んでみたところ、「具合悪くて寝込んでわざわざ句集を読んでいる人」を必死で演じているような気がした。
dancyu10月号の「のむよむ。」にくどうれいんが「歌集は夜に椅子の背もたれに深くからだを預けながら読むのがいい」と書いていた。これはいいかも。夜だね、夜。どうにかして、余白を克服したい。

こぢんまり

相変わらず慌ただしい日々。お裾分けで、今度は梨と葡萄をいただいて帰る。果物はむいたり皮出したりするのが面倒だからいらないというK君の分までもらってホクホク。そういえば父も、母が夏みかんの薄皮をひとつひとつむいてあげないと食べなくて、子供じゃないんだから自分でむけや!と歯痒かった。武田百合子の「枇杷」だって、一見いい話っぽいが、「俺のほうはうすく切ってくれ」と百合子さんに切らせる泰淳さんに、枇杷ぐらい自分でむけや!と苛立っていた。まあ、本人たちがそれでよければ、いいんですけれども。

このところ、帰りの車中で、金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』と、今村夏子『とんこつQ&A』を読んでいた。疲れているときは笑いのハードルが低くなるようで、声をあげて笑いながら読んだ。マスクしていてよかった。『ミーツ・ザ・ワールド』はSPURに連載されていたためもあると思うのだが、『テニスボーイの憂鬱』や『走れタカハシ』のような(じゃない方の)村上龍作品を思い浮かべた。電車を降りて、家まで歩く間も、顔の筋肉に笑いの名残があって、ああ笑うのって気持ちいいなあと思った。

『飛び立つ季節 旅のつばくろ』を読む。なぜか新刊が出るたびに読んでしまう沢木耕太郎。途中、「こじんまりとした建物だった」(p.205)という一文に、おや?と思った。ちんまりに小が付くから「こぢんまり」と認識していたので調べてみると、やはり【1986年に内閣が告示した「現代仮名遣い」では「こぢんまり」が正しいと認定しているため、マスコミなどの表記もすべて「こぢんまり」に統一されている】とある。しかし「小締まり(こしまり)」の音変化で「こじんまり」と使われるようになった説があるため、「こじんまり」も間違いではないとも記されている。へぇそうだったんだー。そういうのを考慮した上での「こじんまり」だったんだね。

タイトルに曜日と動物名が付いた恩田陸のエッセイシリーズ2冊目の『日曜日は青い蜥蜴』に、

沢木耕太郎のエッセイを読むたび、構造が丸谷才一のエッセイに似ていると思う。どちらも「窓から入って正面玄関から出る」みたいな印象を受けるのである。(p.40)

とあったが、そうそう、窓から入る感じわかるわかる。この恩田陸のエッセイシリーズもとても面白い。

僕の好きな文庫本(18)

尾崎翠』(ちくま日本文学全集

装幀・装画・安野光雅 解説・矢川澄子

初めて尾崎翠の名前を知ったのは、中学生のころ。群ようこ中野翠などの読書エッセイによく出てきて、読みたいなあと思っていたのだけれど、当時、創樹社から出ていた『尾崎翠全集』は、簡単には入手できなかった。そんなところに刊行されたのが、このちくま日本文学全集で、まさに渡りに船、文庫だし、安いし、ものすごく嬉しかったことを憶えている。すぐに読み、夢中になった。その後、文庫本に限れば、ちくま文庫から『尾崎翠集成 上・下』が、岩波文庫河出文庫から作品集が出版されたが、良いところがコンパクトにぎゅっと詰まっているこの文庫が好きだ。ちくま日本文学全集には、他にも木山捷平梅崎春生長谷川四郎などを教えてもらった。その中で私的ベスト1が、この尾崎翠の巻だ。

尾崎翠は、高血圧と老衰による全身不随で死の床についていたとき、「このまま死ぬのならむごいものだねえ」といって大粒の涙を流した、というエピソードが必ず年譜にくっついてくるのだけれども、いやもうぜんっぜんむごくなんかないですよ、あなたが亡くなって50年以上経つのに、たくさんのファンにこうして大切に読み続けられているのだから、むごくなんかないです、と伝えてあげたい。