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ヨムヨムエブリデイ

僕の好きな文庫本(8)

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村田喜代子『八つの小鍋 村田喜代子傑作短篇集』(文春文庫)

装画・ささめやゆき 装幀・菊地信義 解説・池内紀

「ものすごく面白いのに、なぜかすぐに本が絶版になってしまって地団駄をふむ作家のツートップが、私にとっては河野多惠子村田喜代子だ。」「『真夜中の自転車』も『蟹女』も『ルームメイト』も『鍋の中』も『望潮』も絶版。ぜんぶまとめて復刊希望。」図書カード三万円使い放題企画に登場した際、こう書いていたのは岸本佐知子。御意!
新しめの著作はポツポツと文庫化されているが、初期の小説集では、芥川賞受賞作収録の『鍋の中』(文春文庫)以外は文庫化すらされていない。『鍋の中』もとっくに絶版。その代わりといった感じで刊行されたのが、初期の短篇からの選りすぐりを集めた、この村田喜代子傑作短篇集だった。「鍋の中」(芥川賞)、「白い山」(女流文学賞)、「真夜中の自転車」(平林たい子賞)、「蟹女」(紫式部文学賞)、「望潮」(川端康成文学賞)含む八篇収録。婆ちゃんオンパレード。意外に「熱愛」が好き。傑作短篇集がでただけでもありがたいが、できれば傑作集ではなくて、個々の短篇集を「文庫」で読みたい。

しつこく納豆二パック

相変わらず仕事に振り回され口内炎までできてしまう。痛い。夏ミカンを食べると罰ゲームのよう。
空き時間に、西村賢太『一私小説書きの日乗 堅忍の章』(本の雑誌社)をちびちびと。同じ繰り返しで飽きたみたいな感想を見かけたが、日記ってそういうものではないだろうか。晩酌後、お決まりの納豆二パック。日記は、このお決まりの積み重ねが楽しい。本の雑誌の最新6月号の日記には、ラストに「納豆一パックと白ご飯」が登場したけれど、やはり納豆二パックでないとね。真梨幸子酒井順子藤野可織をお好きなようなのも意外な感じでいい。

本屋に寄り道。文庫新刊コーナーで、松田青子『女が死ぬ』(中公文庫)が目にとまり、あれ?これ文庫オリジナル?と思ったら、『ワイルドフラワーの見えない一年』に数編のおまけと著者一言解説が付いていた。帯に〈「女らしさ」が、全部だるい。〉とある。ホントそれや! 世の男性は(と一括りにしたらいけないですね、私の周囲にいる男性限定)は、家庭でママがやってくれていたこと、炊事、洗濯、掃除、雑用などは、すべて妻や恋人や妹や職場の女がやってくれると思っている。やってくれるというか、やってあたり前。たまーに本人が食事の用意をしたりすると、あくまでも手伝うというスタンスで、これみよがしに、ドヤ顔でやった感をアピールしてくる。褒めて褒めて、と。それこそやってあたり前だ。SNSなどを見ると、時代が前に進んでいるような印象を受けるけれども、自分の周りはなーんにも変わっていない。そんな何もかもがホントに、全部、だるい。だるだる~。

僕の好きな文庫本(7)

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レイモンド・カーヴァー『ぼくが電話をかけている場所』(村上春樹訳、中公文庫)

カバー・落田謙一

日本で最初に翻訳出版されたレイモンド・カーヴァーの作品集で、マイ・ファースト・カーヴァーでもある。日本の読者に紹介するために訳者がセレクトして編んだ作品集で、同じ趣旨のものが『夜になると鮭は‥‥』(中公文庫)『ささやかだけれど、役にたつこと』(文庫化していない)と続けて刊行されている。
その後、和田誠デザインによる函入りのチャーミングな全集が出て、さらに時を経て、手軽な新書サイズの村上春樹翻訳ライブラリー(中央公論新社)に収められた。全集となると、中には出来のよくないものもあるので、それを全部訳すのはしんどかったといったようなことを訳者が何かに書いているのを読んだ。
どれか一冊選ぶとしたら、ベリーベスト的な『Carver's Dozen レイモンド・カーヴァー傑作選』(中公文庫)かと思うが、アメリカにこんな素晴らしい短篇小説作家がいるから、みんな読んで!という前のめりの熱が込められた、この最初の一冊がいちばん好きだ。初めて読んだときの衝撃は今でも忘れられない。「出かけるって女たちに言ってくるよ」のラストの石!
歳とともにこちらの感受性も鈍り、何かを読んでこのようなフレッシュな衝撃を受けることはもうなかろうと思っていたが、それがあったんですよ。ルシア・ベルリン、略してルシベル。

MUGO・ん

国の中央のほうのグダグダが、我々末端の現場にまで及んできて、毎日グダグダが加速している。何をどうしたらここまでグダグダになるのだろう。

疲れ果てた帰路、前を歩いている女性に抱っこされた赤ちゃんと肩越しに目が合う。じーっと顔を見つめてくるので、ニッと笑いかけると、満面の笑みを返してくれた。こちらはマスクをしていて、目しか出ていないのに。親しい友人から、どんなときも目は笑ってないよねとか、目が死んでるとか、目が空洞とか散々言われてきたが、案外、目だけで通じるものなんだーと嬉しい。笑いかけると笑ってくれるを何度かやっているうちに、道が分かれ、母子がだんだん遠ざかって行った。軽く手を振る。

松浦寿輝『わたしが行ったさびしい町』を読んだ。松浦寿輝は何冊か読んできたが、なんとなく、鼻につくとか、いけ好かないとか、しゃらくさいというイメージ(すみません)があり敬遠していたのだが、これはよかった。朝と昼休みと帰りに1、2篇ずつ読むのが待ち遠しくてたまらなかった。読み終え、もっと寿輝を!となって、巻末の広告に載っていた『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』を読み、『BB/PP』を読んだ。ひさびさの掘り返し読み。楽しい。
最近他に読んだ本。朝吹真理子『だいちょうことばめぐり』、小林聡美『わたしの、本のある日々』、『図書館の外は嵐 穂村弘の読書日記』、岸政彦・柴崎友香『大阪』、千早茜『しつこくわるい食べもの』、ジュリア・フィリップス『消失の惑星』など。いかにも自分の好みそうな本ばかりで、自分が自分の鼻につく。

夕飯を食べながら流していた三島賞・山周賞記者会見で、しゃべる江國さんと未映子を見られた。ナマ乗代雄介まで。未映子の話のうまさが光っていた。
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小鳥

こどもの日。カレンダー通りの4連休。冬用の寝具の入れ替えや、読書、見逃しドラマや映画などであっという間に終わる。隠居したらこんな日々が続くのかと思うと楽しみで仕方がない。

梨木香歩『炉辺の風おと』を読んでいたら、「誰の手も時間も取らず、一人だけで満ち足りてきげんよくしていられるというのは、実は最も尊い才能の一つではなかろうかと思っている」(p.219)とあった。幼少の頃から一人できげんよく過ごすベテランだった自分は、それが一般的だと思っていたのだが、コロナで少数派であることを知った。
だって、仕事でもプライベートでも、「俺を、ボクを、あたしをきげんよくさせてくれよ」という人が周りにうじゃうじゃいて、いやはやすごいですねーとその都度褒め称え、持ち上げ、顔色をうかがい、それを繰り返していると、自分のきげんがすり減り、ぺしゃんこになってしまうの大変じゃないですか。あと、森博嗣のエッセイにはイラッとさせられることが多いのだけれど、『ツベルクリンムーチョ』のソーシャル・ディスタンスについての記述には思わず首肯した。

エコバッグに財布と読みさしの本を入れて買物に行き、よさげなベンチでもあればそこでしばらく本を読み、時間を気にせず書店やブックオフを覗いて帰る。休日の楽しみ。小山田浩子『小島』(新潮社)を買う。豊崎さんが、小山田浩子は日本文学界の「いきものがかり」とうまいことを言っているが、この本のことをずっと『小鳥』と思い込んでいた。ええと、ことり、ことり、『小鳥』ゲット!と喜び勇んで帰り、初出一覧を開くと、群像、文學界、文藝、早稲田文学、たべるのがおそいなど多岐にわたっているのに新潮社から刊行ということは、相当新潮社から愛されている作家なんだな、新潮新人賞出身だからな、装幀もいつも気合が入ってるしな、そしてじっくり表紙を見て、やっと『小島』に気づく。ことりじゃなくてこじま!衝撃!