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ヨムヨムエブリデイ

3連発

11月最初の出勤。雨、降ったりやんだり。明日が祝日だということを今日知って喜ぶ。ただ忘れていただけだが、嬉しい誤算。日曜と祝日の谷間で忙しかった。

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3連発だよ!

プロの経験もあるキャリア20年の女子サッカー選手にまでマンスプレイニングしたがる男たちに試合で逆襲する爽快感に浸りながら、キム・ホンビ『女の答えはピッチにある』を読み終える。

次は荻原魚雷『中年の本棚』。読んでいて荻原魚雷の男性性を強く感じる。実際そうなんだけど。これまで読んだ著作で取り上げられた本は、杉浦日向子佐野洋子星野博美などを除いて9割ぐらいが男性作家のもので、古本が主なので自然とそうなるのだろうが、自分が荻原魚雷ちょっと苦手と思うのはこの辺にあるのかもしれない。男性が読むと気にならないのだろうけれども。『中年の本棚』では、田辺聖子伊藤比呂美酒井順子ジェーン・スーなどいつもより女性作家やや多め。
男性の方が中年の危機を強く感じるのではないかと周りを見て思う。女性は、というか私は、特に危機感はなく、歳をとるほど、色々煩わしいことから解放され精神的にらくちんになった。今が楽しい。同年代の友人たちも楽しそう。肌トゥルトゥルの20代に戻してやると言われてももうイヤだ。でも男性が、女性が、と決めつけるのは危険で、性差なくそういう人もいれば、そうでない人もいるということだが、飲み会の時などに、昔の武勇伝を語ったり、若い頃の俺はすごかった自慢をするのは100%年上の男性だ。

あと新刊がでると読みたくなる平松洋子の『肉とすっぽん』。趣味どきっ!で放送された仕事部屋が素敵だった。近頃は「週刊文春」の連載が即文庫オリジナルで刊行されるのがありがたい。

俺のとは違う

寒くなってきたせいか、マスクの違和感をあまり感じなくなる。むしろ暖かいし咽喉も乾燥しなくていいじゃないか。ウィズコロナのウィズみを実感する。
新米を握ったおむすびがうまくてうまくて、ますます昼休みが楽しみでしかたがない。今日の昼読は金原ひとみの『fishy』。夏にエッセイ集を読んでから興味がでてきて『アタラクシア』を読んで、からの『fishy』。ドラマ『臨場』の倉石(内野聖陽)のキメ台詞が「俺のとは違うなぁ」なのだが、気付けば自分も「俺のとは違うなぁ」と思いつつ金原ひとみの本を読んでいる。違うなぁと言いながら引き込まれる。そんなに世の中の皆、不倫してるの? たとえば、津村記久子などは「わかるわかる!俺のと一緒だなぁ」系だ。どちらも好きだけど。

本のリスト的なもの大好物なので『本のリストの本』(創元社)を読んでみた。興味のある分野のリスト(正木香子さんのとか)は楽しいが、興味がない分野のはあんまり…というのがわかった。まあ本に限らず何事もそうだが。巻頭の「私を作った十冊の本たち」と、ラストの南陀楼さんの「中学生のぼくにとって命綱だったSF小説のリスト」の締めくくりの文章「インターネットのない時代には、著者や出版社、刊行年などひとつひとつのデータに重みがあったように思う。/そして読者である私にとって、リストはまだ見ぬ本の海を渡って行くための命綱だった。」が印象に残る。

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ぼくがまだ見ぬ本の海を渡って行くための命綱だったリスト本はこのあたりでした。安原顕チルドレンでもあった。

文庫の解説

昔、愛読していて終了したWeb連載がひょいと復活して読めるようになるのは嬉しいものだ。最近では、幻冬舎のサイトで10日に1度更新される藤田香織の「結局だらしな日記」が楽しみ。カジュアル系の日記で、これを読むと無性にエンタメ小説を読みたくなる。

もう一つは、元「考える人」の編集長河野通和の「ほぼ日の学校長だより」。「考える人」時代のメルマガから愛読している。今は、草野心平について。へーと思い、中公文庫の『酒味酒菜』を読んでみることにした。文庫解説を高山なおみが書いていて、解説を書くために初めてこの本を読んだという記述があった。なんかね、文庫の解説は、その人とその本のことが好きで好きでたまらん人に書いてもらいたいなあ。あまりにも好きすぎて周りが見えなくなっているのはキモいけど、それぐらい愛があるのがいい。仲よしグループで解説を回し合い褒め合っているのとか、義理で書いたのとか、つまらない。山田詠美が書いた、村上龍『すべての男は消耗品である。』の解説のような辛辣な名解説もあるけれど。

北上次郎『書評稼業四十年』の中に、杉江松恋大森望は、つまらない文庫解説の依頼ほど、自分がサービスしなきゃと萌える、本がつまらないと解説が長くなる、とある。北上次郎池上冬樹は、自分がいいと思う作品しかとりあげない「傑作派」なのだそう。
そのせいかわからないが、北上次郎が熱く語る本は、自分の好みとずれているのだけど、妙にそそられるところがある。

本の雑誌チルドレンだった頃、北上次郎が激オシしていた『パイナップルの彼方』と『ブルーもしくはブルー』を読み、山本文緒にはまってからずっと追いかけていてずいぶん時が流れたのに、まだその新刊『自転しながら公転する』を楽しみに読めるなんてありがたいことだなと思っている。

木犀の日

先週は南にある台風の影響で、ずっと雨、雨、雨、寒、寒、寒だった。雨降りだからミステリーが捗って(良かったことはそれぐらい)、読み終えたのは『死んだレモン』と『時計仕掛けの歪んだ罠』。

今日は休み。やっと晴…てはいないが雨は降っていない。午後からぷらぷら歩いてちょっと遠くのでかいスーパーまで買い物に。それまで読んでいた中原昌也『人生は驚きに充ちている』に古井由吉との対談が収録されていて、「陽気な夜まわり」がとんでもなく怖かった、でもあれは完全に現実の話なんだよ、というやりとりがあった。「陽気な夜まわり」ってどんな話だったっけと気になり、『木犀の日ー古井由吉自選短篇集』(講談社文芸文庫)をリュックに入れて出かける。古井由吉といったら、今では「ナオコーラさんのお尻を触った人」としてインプットされている。古井由吉の最後の新刊の推薦文を川上弘美が書いているが、川上弘美のお尻は触られたのだろうか。

小腹が空いたのでセブンイレブンで肉まんとコーヒーを買い、よさげなベンチに座って食べながら「陽気な夜まわり」を読む。「ちくま」10月号の穂村弘の連載に、朝、おにぎりを持って散歩に出かけ、よさげな公園を見かけたら、そこでおにぎりを食べ本を読むのが習慣になったとあったけれど、外でちょっと休憩しながら本を読むのはほんと気持ちいい。

買い物帰り、隣の書店をのぞくと、村上春樹訳のジョン・グリシャム『「グレート・ギャツビー」を追え』(中央公論新社)が積まれていた。懐かしのグリシャム。訳者あとがきをぱらぱらすると、ポーランドを旅行中に手持ちの本が尽きてしまい書店でたまたまこの本に遭遇し読み耽ったことが、自分もプリンストン大学フィッツジェラルドの生原稿を見たことがあるという自慢を交えながら書かれている。最後のとっておき!の『心は孤独な狩人』の気合の入りぐあいにくらべて、非常にライトな印象。

入浴、夕飯を早めに済ませ、夜はテレビ、読書。なんとなくいい日曜日。

ホーム……ラン

f:id:yomunel:20201002091010j:plain:left10月が始まる。十五夜。月が輝いていた。今年は、夏が暑すぎたせいか、それとも非常事態のせいか、今の気候がとても心地よく感じられて、いい季節だないい季節だなと毎日嬉しがっている。

今日の昼読はスティーヴン・ミルハウザー『ホーム・ラン』。先日の『マーティン・イーデン』(丸亀製麺のCMのナレーションで丸亀と製麺のあいだに一拍置く感じで「マーティン……イーデン」と言うと重厚感がでてかっこいいよ!)と同じ白水社刊でどちらも緒方修一装丁。でも特に今これを読みたいという気分でもなかった。新潮に掲載された小山田浩子の書評を読み、作家の読書道で高山羽根子が好きだと言っていて、瀧井朝世や豊崎由美がそれぞれ違う本の書評の中でこの本に触れていたりして、なんとなく手に取(らされて)しまった。そうはいっても、最初の短篇の不穏な冒頭「玄関に現われた見知らぬ男に、私はノーと言うべきだったのだ」からたちまち引き込まれたが。

何の前情報もなしに何かを手にすることはもうないのだろうか。

 一般論を言えば、私自身は不純な読者です。誰かの文章をきっかけに(ガイドとして)、別の誰かの文章に出会い、その文章にはまって行くというのが、私の場合、しばしばです。しばしばというより、ほとんどです。/けれど、他ならぬ小林秀雄は、不純な読者(書)を強く嫌っていました。常に純粋読者(書)だけを求めていました。要するに、自分の頭で考え、自分の心で感じよ、という人でした。 坪内祐三『考える人』

この文章が書かれたのは15年ぐらい前で、その後スマホSNSの時代になり、純粋読者になるのはもう無理(少なくとも自分は)ではないかな。誰かのガイドのおかげでそれまで知らなかった世界を知ることができるのは素晴らしいけれども、「サキの忘れ物」の千春のような感じでまた本を読めたらいいなと思う。