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ヨムヨムエブリデイ

会話

テーブルからあふれていた職場のお土産コーナーのお菓子が日持ちのするカサカサしたものだけになった。おすそ分けで桃とぶどうをもらう。8月最終週。

日曜日に放送された「村上RADIO」(6月に公開録音が行われた村上JAMのオンエアの1回目)をradikoでぼんやり聴いていたら、山中伸弥教授が客席からステージに引っぱりだされ「僕のランニング友達です」と紹介されていた。それまで2人のベストタイムは一緒だったのにこの間山中先生に追い越されちゃった、と続き「僕の友達にその話をすると、みんなが『それはなんとか細胞を入れてるんだよ』って言うんですよ」、すかさず山中教授が「そういうドーピングはしておりません」と応じ会場が爆笑ではなく口角が上がる程度の軽い笑いに包まれる。これがウィットに富んだ大人の会話なんだと思った。台本があるのかわからないけれど、ポンポンと弾む会話の応酬に、普段からいろんな場面でこの種の会話をして鍛えられているだろう余裕が感じられた。

翻訳物のハードボイルド小説を読んでいると、

「いつも黒ずくめだね」と、私は言った。
「服を脱いだ時に、効果があるからよ」   
        ーレイモンド・チャンドラー『かわいい女』(創元推理文庫

のような会話がドサドサでてきて、うひょーとなるのだが、実際こんな会話はできない。頭の回転がゆっくり、柴崎友香風に言うとdelayなので、あとでああ言えばよかったこう言えばよかったと思うばかり。先日、同僚と雑談中、同僚の友人が消防士と不倫しているという話になり「いくら消防士の彼でも恋の炎は消せないんだ」と思わず口から出て、これは決まった!どうや!と悦に入っていたらあっさり無視されて次の話題に移っていった。

横山秀夫ノースライト』(新潮社)を読み終えた。途中から引き込まれ一気に読んだ。ラストは、広げた風呂敷を男のロマンできれいに畳んだという印象。青瀬が設計し建てた信濃追分の家が、自分の頭のなかにあるイメージと合っているのか答え合わせしたいな。柴崎友香『パノララ』の沢田マンションのような家とか、山崎ナオコーラ『偽姉妹』の屋根だけの家も正解が知りたい。100人いれば100通りの正解があるんだよと言われそうだが。

目が閉じる系

お盆休みで乱れた仕事の流れがやっと元にもどりほっとしている。夏の出口も見えてきた。嬉しいのは、昼休みにみんな思い思いにランチを取りに出たがらんとした部屋でゆっくり本を読める時間ができたこと。ランチを手早く済ませ「賞味期限今日までですよ、食べて!」という付箋が貼られた阿闍梨餅とコーヒーをおともに千葉雅也『アメリカ紀行』(文藝春秋)を開く。

本を読んでいて、目が閉じるという現象にしばしば見舞われる。例えば、みすず読書アンケート号に載るような、自分の興味の範疇外のものだったり、自分の理解能力を超えた難解なものを読んでいるときそれが起きる。目を閉じるのではなく目が勝手に閉じる。いや、目自体はカッと見ひらかれているのだけれども、目と脳をつなぐ回線のどこかがシャアーッと閉じてしまいそれ以上一文字も入っていかなくなる。郡司ペギオ幸夫『天然知能』の半分は目が閉じていた。千葉雅也の前の著作でも目が閉じた。でもこの『アメリカ紀行』は自分の好きな紀行文形式ということもあり、たまに目が閉じそうになりながらも面白く読む。他のもまた読んでみようかという気にもなっている。

東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)も楽しく読んだ。六車由実 『驚きの介護民俗学』あたりから、このケアをひらくシリーズをぽつぽつと読んでいる。最近は専門家が書く学術書とエッセイの間のような本がよく目に留まる。昔から新書にそういうものが多かったが。ただ、専門家が一般読者にもわかりやすくするために無理に面白くしよう面白くしようとする姿勢が読んでいるとしんどくて、そんな過剰な面白要素はいらないから普通に書いて~と思ったりするのだが、『居るのはつらいよ』は、その辺のユーモアの塩梅というかバランスが(自分には)ちょうどよかった。
目が閉じちゃったり、そんな面白要素はいらんと言ったり、自分の気持ちがいちばん難解。

次頁の影

f:id:yomunel:20190816071828j:plain:left実家への帰省プレイ無事終了。暑いし、天候は荒れているし、人は多いし、こんな日はできれば自分のテリトリーでのんびり羽根を伸ばしていたいのだけれど、母が楽しみに待っているので、プレイと思って重い腰をあげる。友人は「夫の実家に帰るの地獄! 自分の実家に帰れるの羨ましい~」と言うし、数年前にお母さまを亡くした職場の先輩は「もう帰りたくても帰るところがなくなっちゃったよ」と悲しそうに言うので、まあありがたいなとは思うのだが。

最近特にその傾向が強くなった、すぐキレて駄々をこねる母をおろおろなだめながら、思春期のころ反抗しまくって、ろくに口も利かず、ドアなんか力まかせにバンバン閉め、階段もわざと乱暴にどすどす足音をたてて昇り降りしていた自分を思い出し、なにかいろいろ帳尻が合うようにできてるんだなと少し可笑しくなった。相変わらず胃袋のキャパシティオーバーの母の自慢の手料理責めにあう。残りをどっさりタッパーに詰めて持たされ、例の東海林さだおのおばちゃんの姿で戻ってきた。背中のリュックなんて石地蔵が入ってるんじゃないかと思った。

この東海林さだおのおばちゃんの後ろに次のページ(あるいは前のページ)の文字の影がうっすら透けているのがわかるのだけれども、これを見てちょっと前の「プレバト!!」でフルポン村上が詠んだ句を思い出した。

行間に 次頁の影 夕立晴

俳句はよくわからないなりに、この句は好きだなと思った。まあおばちゃんの後ろだとロマンチックもなにもないが。
それはともかく、あと2日がんばれば、日曜日。

アイスクリームの灰汁

今日から15日まで夏休み。明日帰省するので、母に頼まれたお菓子などを買いに行く。出不精だから、こんなどうしてもこなさなくてはならない用事があるとあーめんどくせえとしぶしぶ出かけるが、いったん出てしまえば、本屋を覗いたり、ランチを食べたり、コーヒーを飲んだりうろうろしまくって帰り、結果的に愉快な一日となる。

雑誌の隙間を埋める1~2ページのちまちましたコラム的なものが好きだ。例えば、最近の「文藝」では「この装幀がすごい!」や「反安心安全読書日録」なんか。小袋成彬の「反安心安全読書日録」を読んでいたら、小説よりもエッセイのほうが好きな作家がいて村上春樹がそうだとあった。個人的にもそういう作家が何人も浮かび、その逆もあり、両方好きな人もいる。両方嫌いな人は多分それ以上近づかない。
小説に惹かれた作家がどんなエッセイを書くのか気になり、「文學界」9月号の今村夏子の特別エッセイを楽しみにしていた。『むらさきのスカートの女』を書くきっかけとなったドトールについて、その特定の席への執着が、どこか小説の登場人物を思わせて面白かった。

よく行く店では、そこが空いていれば必ず座る席が自分にもある。たいてい隅っこ。歩き疲れて喉が渇き最後に逃げ込んだ店の「自分の席」には先客がいたが、チッと思ったくらいでさほど執着はない。アイスコーヒーでは物足りない気がしてコーヒーフロートを注文する。コーヒーの上に浮いてくるアイスクリームの灰汁のようなものをスプーンでちまちま掬って食べながら、柴崎友香『待ち遠しい』をきりの良いところまで読んでから帰った。

僕の悪い癖

10日から9連休となる企業も多い(うちは関係ないが)とかでやたらと忙しい週。昼抜きだったので帰りにとんかつ。
カバンに入れていたPR誌らにざっと目を通す。「ちくま」8月号の荒川洋治加藤典洋さんの文章」が印象に残った。太宰治賞選考会で他の選考委員がまったく評価しなかった作品に加藤典洋だけ高得点をつけて結局それに押し切られるかたちで受賞作に決定したことが書かれている。この作品は何だったのだろう。そんな細かいことが気になってしまうのが僕の悪い癖。錦見映理子「リトルガールズ」の加藤典洋の選評に「むろんほかの委員から指摘された、語りの安易さなども否定できず、今後、筆の滑る危うさも大きいのだが、しかし、今回は黙らず、ひときわ大きな声をあげて、この作品をゴリ推しした。『太宰治賞2018』p.13」とあるので、たぶんこれじゃないか。ゴリ推し。
Webマガジン「考える人」の雑貨的観点から村上春樹について語る、三品輝起 「ふたりの村上」も面白かった。このサイトは、自分好みの魅力的なコンテンツが多い。岸政彦の「にがにが日記」なんて楽しみでしかたないのだが、たまにしか更新されないのがまたいいのかもしれない。

友人から浅草の方で買ったというデカいボトル入りの柿の種をもらった。テレビなどを見つつ、柿柿柿ピー柿柿柿ピーとやっていると永遠に止まらず、これはヤバいと思い、隣のキッチンにある棚の一番上にわざわざ避難させるのだが、またすぐに取りに行って柿柿柿ピー柿柿柿ピーが始まってしまう。結局、立ったり座ったり部屋を何度も往復しながら柿の種を食べ続けている始末。