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ヨムヨムエブリデイ

ビーフシチュー

晴れ。風は昨日より弱まったよう。ここのところずっと忙しく、やっと休みを取ることができた。昨夜、仕事の帰りに食料やおやつを仕入れてきたので、今日はもうどこにも出かけない。だらだらする時だけ、前向き&全力投球。

あれこれ雑誌散歩。「文藝春秋」芥川賞選評を読んでいると砂川文次「小隊」が受賞作だったっけという気がしてくる。
「群像」の第三の新人の小特集〈アンケート いま読みたい第三の新人作品〉。もうね、アンケート物にすこぶる弱くて困る。12名が回答しているのだが、吉行淳之介がダントツ人気。乗代雄介は小沼丹石田千遠藤周作を。
次は「新潮」の52人の「2020コロナ禍」日記リレー。いろんな媒体でコロナ禍日記バブルなのでやや食傷気味なのだけど、なんとなくずるずる読む。坂本龍一の箇条書きのそっけない日記、柳美里の日記は相変わらず長い。日記は出てくる固有名詞が楽しい。町田康はまだスズキエブリイに乗ってるんだ。今村夏子が娘と「しまむら」に行っている。今村夏子と「しまむら」の組み合わせにシビレる。でもどうせこれは嘘の日記なんでしょう?「文學界」2月号に掲載された今村夏子のエッセイに、前に書いたエッセイについて9割は創作だった、これまでに書いた日記は、ビーフシチューをまんべんなくしみ込ませて捨てたとあり、そのビーフシチューを含ませる描写の執拗さが今村夏子的でぞっとした。一番油断がならない書き手だと思う。しかし、誰の日記も事実だとは限らないが。

最近読んだ本。村田喜代子著『偏愛ムラタ美術館 展開編』(徳間書店)、穂村弘『あの人と短歌』(NHK出版)、森まゆみ『路上のポルトレ 憶いだす人びと』(羽鳥書店)、藤野千夜『じい散歩』(双葉社)。

卵を茹でたり、大根の下ごしらえをしてから、おでんを仕込み中。あとは味がしみるのをゆっくり待つだけ。楽しみ。

会っていた

グッモー、日曜日。晴れ。昼頃友人と待ち合わせ。パン屋で好物の明太子フランスやカレーパン、それからコーヒーを買い、公園の池のほとりのベンチに腰かけて食べながら近況報告。食べる時だけマスクを顎に下げる。陽射しが春らしい。

深沢潮『乳房のくにで』(双葉社)を読んだ。前に、斎藤真理子さんが、『乳房のくにで』と松田青子『持続可能な魂の利用』を、ちょっ、セットで読めよ!みたいなことを書いていたので、読んでみた。面白かった。この人他にどんなの書いてるんだろうと著者紹介欄を見ると『あいまい生活』というタイトルがあり、わわわっ、これ何年か前に読んだことあるわーと思った。シェアハウスの話だった。またもや、荒川洋治の言う「会っていた」現象(『忘れられる過去』より)だ。初めての時は、サラッと通り過ぎて、2度目に会った時に、あの時のあの人だ!とカチリと頭の中の回路がつながる。日々、本を読んでいると、たまにこの「会っていた」現象に遭遇するが、何だかとてもいい気分だ。一度回路がつながれば定着する。深沢潮は、「女による女のためのR-18文学賞」出身で、この賞受賞者の活躍率すごいな。受賞作収録の『ハンサラン 愛する人びと』も読もう。

他にエッセイ集、石川直樹『地上に星座をつくる』(新潮社)、沢野ひとし『ジジイの片づけ』(集英社クリエイティブ)、川上弘美『わたしの好きな季語』(NHK出版)を読んだ。何号か前の「暮しの手帖」に金井美恵子が嫌いな言葉を列挙していた。「私自身」「とある○○」「実は」の3つだったが、その後くらいに「日経新聞」に掲載されたエッセイに川上弘美が エッセイ集の原稿を推敲していて「実は」という言葉の登場頻度がいやに高くて忸怩たる思いと書いていたので、あ、川上弘美、もしかして「暮しの手帖」を読んだのかなと思った。
誰かが、嫌いな言葉、許せない言葉とか書いていると、つい自分のを点検して、うわっ、やべーぞと反省するが、すぐに忘れる。人それぞれだしね。

風物詩

1月最終日で日曜日。何にもしないことをバリバリしていたらいつの間にか日が暮れていた。

増田みず子『小説』(田畑書店)を読んだ。およそ20年ぶりの新刊。増田みず子といったら、枡野浩一の「作家の読書道」で〈暑すぎる図書館は冬「海燕」で増田みず子の結婚を知る(枡野浩一)〉という歌を知ったが、ほんとあれだけシングルシングルシングルシングル言っていて、はあ結婚したんですかそうですかっ!という感じだが、ひとりものひとりもの言っていて、はあ結婚したんですかそうですかっ!の津野海太郎と私のなかでは同じグループに分類されている。島田雅彦や多田尋子などとならび6度の芥川賞最多落選。今、新刊が読めるのが嬉しい。ここのところ、目がエンタメ小説のスピード感に慣れていたので、ギアをシフトダウンして一篇一篇ゆっくり読んだ。

明日から2月。そろそろ「みすず」の読書アンケート特集号の時期だ。
古本界隈のおじさん方は「みすず」の読書アンケート号が好きだ。そんなおじさん方は、また坪内祐三も大好きだ。山田稔も大好きだ。編集工房ノアが大好きで「海鳴り」を競って入手したがる。三月書房も大好きだった。最近の中公文庫の渋めのところのラインナップも大好きだ。詩歌にも詳しいとこをこれみよがしに披露したがる。そういう自分にも、そんなおじさんエキスがほんのちょびっと入っているので気持ちはわからんでもない。
毎年「みすず」の読書アンケート号をめくっていると、日々自分が読んでいる本がごくごく限られた範囲のものでしかないことを思い知らされる。百何十人かのアンケート回答者のなかで、ピンポイントで積極的に回答を知りたいと思うのはその1割程。「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない」(池澤夏樹スティル・ライフ』)を知るうえで大切な風物詩だ。

スッカスカ

明日の朝は平野部でも積雪の予報としきりにアナウンスされていたから、おやつを含め、食料をどっさり買い込み帰宅し、雪ごもりする気満々で目覚めると、全然積もっていない。雪はないが、冷たい雨が降り、うってつけのこもり日だ。本を読み、うとうとし、食べたい物を食べ、ドラマを見て、またうとうと。イライラしたり、不愉快になる要素は全くない、愉快な日曜日。

以前から好きだったが、近頃またエンタメ小説をよく読むようになった。素人読者としては、芥川賞三島由紀夫賞が純文学で、直木賞山本周五郎賞がエンタメ小説と大雑把に認識しているのだけれども、直木賞作家の桐野夏生が「図書」紙上の武田砂鉄との対談で、この十年近くの傾向だと思うのだが、小説が「純文学」と「エンタメ」に二分されて、自分も「小説家」ではなく「エンタメ作家」と呼ばれることが増えた、ただ普通の小説を書いているつもりなのに、なぜそうやって〈文化的なもの〉と〈売れるもの〉に分けられてしまうのか、そのあわいにいる小説家はたくさんいるのに、というようなことを言っていた。

先日芥川賞直木賞が決定したが、その前にいろんな媒体で行われる受賞作予想で、ある直木賞候補作について、豊崎由美栗原裕一郎両氏が口を揃えて、中身がスカスカ、プロットしかない、これがよく候補作になったな、でもそういう作品が今は受けるのかもしれないなど言及していて、その作品を面白く読んでいたので、自分の読解力のなさにがっかりした。でもまあ、スカスカであろうと、読んでいる数時間か数日間楽しい時間を過ごせて、ああ面白かったーと本を閉じられたら、もうそれだけでいいんじゃないかと思っている。典型的な「今の読者」なのかもしれない。

桜木紫乃『家族じまい』(集英社)を読み終え、次はエッセイにしようかと読み始めた阿部直美『おべんとうの時間がきらいだった』(岩波書店)がとてもよかった。
大栄翔が初優勝。

小話臭味

日曜日。目覚ましをかけずに、ゆっくり起きて、ハムとチーズのホットサンドを作り、マグカップになみなみのカフェオレとともに食べる。このところ、サウナと水風呂の日が交互に訪れたような気温差だったが、今日は水風呂の日だ。
カフェオレを啜りつつ、共通テストの国語の問題を読んでみる。加能作次郎「羽織と時計」。『世の中へ・乳の匂い』(講談社文芸文庫)にも収録されている。面白い。W君からもらった羽織と時計をめぐり、語り手の「私」がああでもないこうでもないとウダウダくよくよ思い悩み、結局何の行動もできないところなんて、他人事とは思えない。穂村弘のエッセイでも読んでいるようだ。しかし、その後の設問に、当時新聞紙上に掲載された宮島新三郎の書評が引かれていて、忠実なる生活の再現者として加能氏を尊敬しているのであって、この作品は「小話臭味の多過ぎた嫌いがある」とばっさり斬られている。そっかあ、私は、本来、加能作次郎の作風ではない小話臭味に反応して面白がっていたのかー。

土曜日にtoi booksのチャンネルで行われた「滝口悠生、大滝瓶太のゆるゆる話」で、書けなくなった時、落ち込んだ時、ネガティブな気持ちになった時に、どんな本を読みますか?と訊かれた滝口悠生が、特に決まっていないが、その時読みたい本を読む、どんな暗い小説だろうと、読むというのは、いい方に、希望的な方に進む作業だと思っている、と言っていたのが印象に残っている。
「羽織と時計」を読んで、たとえ的外れでも、面白かった!と思っただけで、いい日曜日だと思える。