y o m u : n e l

ヨムヨムエブリデイ

トゥルットゥットゥー

長嶋有の『もう生まれたくない』にスティーブ・ジョブズの訃報にふれて(訳知り顔に)「皆、『ジョブズが死んだからアップルはダメ』言いたすぎ」(p.71)と登場人物のひとりがイラッとする場面があるのだが、彼女のまねをして「皆、『中秋の名月』言いたすぎ」と言いたい。中秋の名月見た!って言いたいために見て証拠写真を撮るみたいな。いや、そういう私も、「皆、『中秋の名月』言いたすぎ」と言いたすぎなだけの、言いたすぎ隊の立派な一員なのか。

手持ちの本を読んでしまい、次どうしよっかなとボーッとしている夕暮れの帰り道、青空文庫新着情報に、小山清の「落穂拾い」と「生い立ちの記」が入ったよとあるのを目にし、ひさびさに「落穂拾い」を読んでみようかと青空文庫にとんだ。
まだ小山清なんて知らない時期に初めて読んだ「落穂拾い」に「誰かに贈物をするような心で書けたらなあ」という一文が出てきて、そのときは、ぷぷっというか、けっというか、ちょっ、きれいごとすぎて逆に胡散臭くない?とか、文末の(なあ)がちょっとねとかを、もう少しマイルドな形で思ったものだったけれど、今はそんなことちっとも思わない。液晶画面で読む「落穂拾い」が不思議とすっと入ってくる。ああ、いいなと改めて思う。これまでで一番しっくりきた気がした。最後のほうに「十月四日は僕の誕生日である」とあり、十月四日って今日じゃないかと気付いた。これは今日読めてよかったな。青空文庫の粋な計らいに感謝。
途中、語り手が「僕は外出から帰ってくると、門口の郵便箱をあけて見る。留守の間になにかいい便りが届いていはしまいかと思うのである。箱の中はいつも空しい。それでも僕はあけて見ずにはいられないのだ」と書いている。私もいつも期待して自分の郵便箱をあけるのだが、待ち望んでいる人からの便りはいっこうに届かず、宅配ピザや不動産のチラシがどさどさ出てくるだけだ。