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ヨムヨムエブリデイ

胃腸並木

この間の素晴らしい秋晴れの日曜日、久々に顔を合わせる友人と会い、食べて、しゃべって、歩いた。鬼の居ぬ間に洗濯というか、嵐の前の静けさというか。いちょう並木が色づいてきれいだった。次の嵐はやって来るのか?

いちょう並木のトンネルを歩きながら、何年か前の佐藤正午の「ダ・ヴィンチ」のインタビューを思い出していた。面白くて興奮のあまり2日で読み終えたという文庫上下巻に何度も登場する並木道が、欅なのか銀杏か一切書かれていないのに面白く、そういうことを細かく描写する自分はいったい何だったのだろうと考えてしまうというようなこと。その文庫上下巻が何かは秘密ということで明かされていなかったので気になり、その後、上下巻の文庫を読むたびに、並木道の描写に注目しているのだが、これだ!と思うものにまだ当たっていない。
先月読んだ「文學界」11月号の特集「長嶋有吉村萬壱の20年」の長嶋有を作った10冊に保坂和志『この人の閾』が挙がっていて、それに添えられたコメントが、草むしりの場面で草の名前を書かないところに励まされたといったものだった。

小説家にとって、草とか木の名前ってそんなに重要なものなのか。小説家でなくても気にする人はいるだろうけど、私は、「草むしり」とでてきたら、あ、草むしってんだーと思うぐらいで、何という名前の草かは特に気にならない。自分の読解力の浅さはこういうところからくるのかもしれない。だってキリンジ兄の「冬来たりなば」なんて、鈴懸けの並木道だからいいんだものね。名前は大事。和菓子を食べたくなるが。

奥田英朗『コロナと潜水服』を読んでいたら、冒頭の短編に主人公が草を刈るシーンがでてきて、刈られていたものは、ただの「草」だった。今までザックリ通り過ぎていたいろいろ細部が気になるようになってきて、それもまた楽し。