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ヨムヨムエブリデイ

SPARKLE

休み。あっという間に月末になり、5月分の代休をあわてて消化する。布団の中で、(いつもなら自分が乗っているであろうぎゅうぎゅうの)電車や車の走る音、他の部屋から伝わってくる生活音を聞きながらトロトロと二度寝する気持ちよさ。ひさびさの平日休みなので、銀行、郵便局などに行くため昼前に出る。モーニングサービスの時間に駆け込み、朝昼兼用のごはん。トースト、サラダ、ゆで卵、コーヒーのセット。ただ茹でただけの卵がモーニングだとなんでこんなにおいしいのか。

ずっと鞄に入れたまま忘れていた自動車税を払う。前は仕事で夜勤があり車が必要だったが、今は特に必要がない。いろんな維持費のことを考えると手放した方がいいのはわかっているが、決心がつかずにズルズルと。
こないだの晴れて暑かった日曜日、友人を誘ってドライブに出かけた。海岸線を走る車の窓から入ってくる風が心地よく、海がキラキラキラキラ眩しくって、カーステレオから山下達郎の「SPARKLE」のイントロが流れてきたとき、夏の最初の朝だ!と思った。『たんぽぽのお酒』だ。ひろがる(ひろがる!)世界は(せかいは!)不思議な(ふしぎな!)輝き~を、バックコーラスを友人と勝手に担当しながら、ああ、やっぱり車っていいな、可能なあいだは、手放さずにいようと思いなおす。

所用をすべて済ませ、コーヒーフロートを飲みながら休憩。コーヒーフロートは桜庭一樹『少女を埋める』の影響。読んだ本に操られている。スープを煮込んでいる際に浮いてくる灰汁(あく)をすくう要領で、アイスクリームとコーヒーの境目の灰汁状の部分ばかりちまちますくって食べるので、おいしいのかおいしくないのかよくわからない。でも灰汁状のものを見ると、すくわずにはいられない。

津村記久子『やりなおし世界文学』(新潮社)が出ている。2013年に休刊になった毎日新聞社のPR誌「本の時間」に連載されていた分も収められていてよかった。この連載を読んで、モームの『アシェンデン』を読んだのだった。

往復書簡

晴れて暑い。昼休み、末井昭 春日武彦の往復書簡『猫コンプレックス母コンプレックス』(イースト・プレス)を読む。春日先生の本には、つい手がのびる。末井昭が「まえがき」に、「(春日さんとの)知識の差、読書量の差は歴然としているので、ペダンチックにならないこと、本からの引用は控えめにというシバリを入れさせてもらいました」(p.4)と書いている。春日先生のやたらと出てくる書物からの引用大好きなんだけどな。

私信が没後に発見されて公開されるのは、もし自分だったら、やめてー!舌噛んで死んじゃいたい(もう死んでるが)と墓の下で地団駄を踏みたくなると思うのだけれど、公開を前提に書かれている往復書簡は、その点読む方も気がラクだ。書簡という形式のリレーエッセイのようなものだから。新しいところでは、昨年の上野千鶴子 鈴木涼美の往復書簡『限界から始まる』(幻冬舎)が印象に残っている。

往復書簡といえば、リニューアル前の「クウネル」に連載されていた、いまとなっては伝説の「江國姉妹の往復書簡」が好きだった。あれはもう書籍化されないのでしょうね。『旅の仲間 澁澤龍彦堀内誠一往復書簡』ほどゴージャスでなくてもいいから、手書きのまま、まとめて読みたい。たろうちゃん(晴子さん)のファンだった。

文學界」6月号の川上弘美のインタビュー「循環する小説たち」は、これまでの川上弘美の小説総決算みたいな感じで面白かった。その中で、『ぼくの死体をよろしくたのむ』がリニューアル前の「クウネル」に連載されていたと言及されていた。未だに「リニューアル前」とか「昔の」とか「旧」とかを必ず頭に付けられる「クウネル」のかなしみ。

マッチング

久しぶりに気持ちのよい晴天。通勤本のアン・タイラー『この道の先に、いつもの赤毛』(早川書房)がじわじわ面白い。近ごろ読む本読む本10点!10点!10点!10点! 10点じゃなくても10点!10点!10点!10点!だ。
午前中バタバタして、クラリッセ・リスペクトルのように、げっそり頬がこける。昼休み、ずいぶん寂しくなってきたお土産のおやつコーナーから釣鐘まんじゅうを選ぶ。これ、前に遠田潤子『緑陰深きところ』を読んでから、食べたかったやつだ。アン・タイラーの本と一緒に 鞄に入れていた南木佳士のエッセイ集『猫に教わる』(文藝春秋)を何篇か読みながらひと息つく。釣鐘まんじゅう、おいしい。帰りに、本屋で「ダ・ヴィンチ」6月号をパラパラ立ち読みしていたら、「4人のブックウォッチャー」(これは必ずチェックする)のコーナーで関取花さんが『この道の先に、いつもの赤毛』と『猫に教わる』の2冊を取り上げていた。たまたまここ何日か鞄に入れて読んでいる2冊と同じで、だから何?と言われればそれまでなのだけれど、こんなにたくさんの本があるなかで、めっちゃマッチング!と嬉しくなった。帰路は『この道の先に、いつもの赤毛』の続き。先週入れたままだった博多通りもんが鞄のなかでぺったんこになっていた。

レイニーブルー

雨の一日。退勤後スーパーと本屋に寄る。いつものルーティーン。山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』の「でもさ、仕事が終わったあとに、文庫本一冊と、缶ビール一本を買って帰るのが、一日の終わりの楽しみなんだ。」と言う紙川さんの気持ち、うん、よくわかるよ。

講談社文庫の新刊が並んでいる。いつもより早いのは金曜日だから? 西村賢太『瓦礫の死角』。これ、読みそびれていて、いつだったか真梨幸子が新聞の追悼文で、この本所収の「崩折れるにはまだ早い」について、ミステリーの手法で書かれていて「あ!」と叫んでしまうほど騙された、と言及していた。ミステリー好きとしては、騙されて「あ!」と叫びたいじゃないですか。文庫化はラッキー。滝口悠生『高架線』も文庫化。サヌキナオヤ装画の単行本もよかったけど、文庫版もまた素敵。

滝口悠生といったら、フヅクエ文庫の選書企画で選んでいた「会社員時代に読んだ本3冊」とそれに添えられたコメントがすごくよかった。会社員になってすぐ、ひと月くらいでつらくてもう辞めたい、辞めよう、と思い、その時期に読んでいたのが絲山秋子長嶋有の文庫本だった、とある。さらに津村記久子の本についての文章がまたよくて、長くなるけれど引用する。

デビューして小説の仕事もしはじめたけれど、まだ会社勤めをしている頃、仕事の休憩時間に三茶のシャノアールでこの本を少しずつ読み進めていた。本を開けば作品の舞台であるビルの世界にまた行ける、彼らに会える、とこの本を読む毎日が幸福だった。僕はそういう経験は少なくて、自分で小説を書いているからか、小説を読むのは素朴な楽しみというより取っ組み合いみたいなところがあり、甲斐はあるけど疲れる作業でもある。でも津村記久子の作品とは取っ組み合いにならなくて、穏やかに一緒にいられる。僕が読んでいたのは分厚い単行本だったから、毎日鞄のなかにその本があると感じて嬉しくなったその重みまで覚えている。

私も仕事の休憩時間にこの津村記久子の分厚い単行本を読むのをひたすら楽しみにしていたことを覚えている。滝口悠生の本を読むと、いつもこのままずーっと読み続けていたい気分になるのだけど、そういう本たち、『茄子の輝き』『高架線』『長い一日』が毎日通勤鞄のなかにあり嬉しかったこともまた覚えている。

ルーティーンズ

世間で連休明けと言われる月曜日の昨日は休憩時間がほとんど取れなかったが、今日やっといつものルーティーンが戻ってくる。ルーティーンはいい。
こんな賑やかなおやつコーナーは何年ぶりになるだろうか。何も語らずとも、旅に出たことや行先などをどーだ!と見せびらかせるツールとしてのお土産がてんこ盛りだ。昼食後、コーヒーとともに博多通りもん萩の月阿闍梨餅(欲張ってしまった)をピックアップして数十分の読書タイム。この時間だけが楽しみで。途中しょっぱいものも欲しくなり、めんべいを追加投入。ここ数日読んでいた佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』(KADOKAWA)を読み終える。よかったー。「ベギン会」のこと初めて知った。ヤネケの人でなしっぷりがめちゃかっこいい。一途なヤンもいい。「ヤネケはくすっと笑う。それだけでもう充分だ、とヤンは思う。(p.306)」グッとくるよ、ヤン! 「その人が笑っててくれたら、あとはもう何でもいい、そういう感じ」と大豆田とわ子さんも言ってたし。