y o m u : n e l

ヨムヨムエブリデイ

dマガジン

12月に入り、仕事が忙しいのに加えて毎週末に忘年会があり、心が死んでる。早く家に帰りたいなあ、早く家に帰って、風呂に入って、こたつに足をつっこんで、あったかい飲み物を傍らに本の続きを読みたい。ビンゴゲームの数字を睨みながらずっとそんなことを考えている。

年間ベスト本特集が色々出揃ってきて、年末のお祭りみたいで楽しんでいるのだけれども、同じ人が違う媒体に登場するのを何度も目にすると、あーまただって、だんだん飽きてきちゃうというのが正直な気持ち。非常に贅沢なことだとは思うのだが。
そんなところに「すばる」の私の偏愛書特集とか、「文學界」の文學界書店のように違う切り口のものがくると新鮮に感じられる。山田詠美の偏愛書の川上浩司『不便益のススメ 新しいデザインを求めて』(岩波ジュニア新書)を思わず読んじゃった。
不便益というのかどうかわからないが、昨日髪を切りに行った行きつけの美容院が、紙の雑誌をやめて、dマガジン入りのiPadを導入していた。それはもう、読みたい雑誌をあれこれ読み放題で素晴らしいのだけど、好みでない雑誌を置かれ、気が進まずにペラペラ繰るページの間に、前にカットされた人の髪の毛が挟まっててウヘー、なんていうのをちょっと懐かしく思った。

リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(新潮社)を読む。6人目のニーレイ・メータのところ(p.152)まで。パワーズには苦手意識があり、大丈夫かなあ、読めるかなあと不安だったが今のところじわじわ進んでいる。本の下部からでている青いスピンが少しずつ少しずつ後ろに移動していくのを見るのが嬉しい。昨日「村上RADIO」で最後にかかったピアノの音が気に入りYaron Herman『Variations』を聴く。『オーバーストーリー』の表紙と『Variations』のジャケットで謎のwoody感きたー。

よっちゃん

S社から職場に届いた請求書の封筒に、ぐりとぐらが丸太みたいなのにいい感じに並んで腰かけている切手が貼られていて、あ、よっちゃん、今月も元気なんだな、よかったと思った。そもそもS社に請求書係の人がいるのかどうかも知らないが、毎月届く封筒に貼られた切手のチョイスのキュートさに一貫性があり、おそらく同じ人の手によるものと思われる。で、いると仮定して、こちらが勝手に「よっちゃん」と名付けて呼んでいるだけなのだけなのだ。最近は、月初に届くよっちゃんからの便り(請求書だけど)を心待ちにするようになった。よっちゃんは、五穀米の手作り弁当を持参していて、休憩時間には、ムーミンのマグカップでコーヒーを飲んでいる(たぶん)。

あさイチ」に未映子がでるそうなので、録画予約をしてから出勤する。昔読んだ久世光彦のエッセイ『死のある風景』に、漱石、鴎外、鏡花、荷風安吾、一葉などはなぜか名前で呼び、太宰、芥川、川端、谷崎などは苗字で呼ぶというようなことが書いてあったが、川上未映子のことは前から「未映子~」と呼んでいる。未映子の新刊キター!とか、未映子村上春樹の朗読会だって!とか。他に下の名前だけを呼ぶ今の作家ってすぐには思いつかない。同じ川上でも川上弘美は弘美とは言わないし。
うー、さぶさぶと帰ってきて、卓上コンロで作った具だくさんの鍋焼きうどんをハフハフしながら「あさイチ」を見る。面白かった。時々飛び出す、関西弁のイントネーションにやられた。からの「孤独のグルメ」。

噛みあわない会話と、ある過去

もう12月か。びっくり。

 できれば家にいて、右のものを左、上のものを下へ動かしたり、また戻したりするだけの日々を送りたい。それには誰かの機嫌や健康状態、予定などを気にしなくていい、一人っきりの暮らしを手に入れればよかったのかもしれない。 
「里帰り」長島有里枝 新潮12月号(p.380)

そのあとに、子供らがいるのでそういう暮らしは手に入らなかったが、もし手に入っていたらそれはそれで不満だったのではないかと続けている。この長島有里枝の文章に少しつながるような、メイ・サートンの日記と、『天才たちの日課 女性編 自由な彼女たちの必ずしも自由でない日常』(女性編のほうが面白い!)をちびちび読む平和な日曜日。誰かの機嫌や健康状態、予定などに振り回されることもない。

ここらでちょっと小説を読みたいなと、なんとなく辻村深月『噛みあわない会話と、ある過去について』を手に取り読み始める。無意識に漏らした一言が誰かを深く傷つけていたかもしれないということ。読んでいると、嫌な過去が蘇ってくる。「F、私はあなたのことを一生許さないから」Fに対するどす黒い思いがどんどん湧き出てきて今でもはらわたが煮えくり返り、うわあああと叫びたくなるが、反対に自分も知らないうちに誰かに嫌な思いをさせていたかもしれない。窓から冬のやわらかい陽光が射す静かな日曜日を満喫していたはずが、いつの間にか、暗い穴から次から次へと、どくどくどくどく溢れ出てくるどす黒いものを持て余している。誰かの機嫌や健康状態、予定ではなく、本に振り回されている。

気分転換に、食料の買い出しに。赤や黄に色付いた葉が美しい。少し気が早いがコートを着てふらふら歩いていると、『夜の浜辺でひとり』の秀子お嬢様というかキム・ミニのような気分になって(全然違うわ!)ウキウキしてくる。冬は歩くのが楽しい。そして暗い穴に蓋を。

アウター

雨。凍える寒さ。一気に冬支度。冬の第一印象はアウターで決まる!雑誌かなんかでチラッと見かけただけのフレーズがいつの間にか脳みそのヒダに入り込んでいる。そう、冬はアウターが大事。さらにストールを、時間がなかったのであわてて適当に巻きましたと、ものすごく時間をかけて「時間がなかったのであわてて適当に巻きました風」に巻くかの間で相も変わらず揺れている。ものすごく時間をかけて「時間がなかったのであわてて適当に巻きました風」に巻くほうが、時間がなかったのであわてて適当に巻きました感が強くでるのが不思議。人工的なほうがナチュラル。時間がなかったのであわてて適当に巻いたら、ものすごく時間をかけて「時間がなかったのであわてて適当に巻きました風」になるのが理想だが、ナチュラルがそのままナチュラルになる境地に何年たっても到達できない。
インフルエンザの予防接種を受ける。毎年この辺に打たれると予想しているよりもずっと下のほうに打たれてびっくりするので、今年はあらかじめ下のほうを予想していたら、さらにその上をいく下さだった。上をいく下って何?どんどん下がっていって来年はどうなるのだろう。手首ぐらいに下りてくるのか。

メイ・サートンの『74歳の日記』(みすず書房)を見かけて、あれ?これまで何冊の日記がでてるんだろう?新装版などもあり、こんがらがってたので書き出してみた。
『独り居の日記』『海辺の家』『回復まで』『70歳の日記』『74歳の日記』『82歳の日記』
Titleの辻山氏がサートンは8冊の日記を発表していると書かれていたのでまだ未訳のものが2冊あるのか? 昔『独り居の日記』を読んで気に入り、ぽつぽつと読んできた。『富士日記』なんて、どうしてあわてて読んじゃったんだろう、楽しみを取っておけばよかったと後悔しているので、まだ何冊か残っているのは嬉しいことであるよ。

謝肉祭

キーンと冷えた朝の空気のなかを駅へと急ぎながら最近よく思い出すのが、ルシア・ベルリンの「ティーンエイジ・パンク」だ。学校をドロップアウトした息子の友人と冬の早朝にツルを見に行く話で、ツルを見た後ふたりで寝そべって魔法瓶に詰めてきたコーヒーを飲むシーンが心に残る。この夏に初めて読んだときから好きだったが、季節が追い付いてきてますます好きになった。季節による熟成。

休み休み読んでいた、山崎ナオコーラ『ブスの自信の持ち方』を読み終えた。「ブスの敵は美人ではなく、ブスを蔑視する人だ」(p.8)ブスにとどまらず、社会にはびこるルッキズムジェンダーに関する問題をひとつひとつ丁寧に掘り下げていき、こんなおかしな社会を変えたいと結ばれている。あちこちで立ち止まり考え込みながら読むので時間がかかった。

そのあと手に取った「文學界」12月号の村上春樹「謝肉祭(Carnaval)」の冒頭が「彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だった」だったので、こ、これは、なんとまあ!と思った。「あえて『醜い』という直截的な(いささか乱暴な)言葉をここで使わせていただくことにする。その方が彼女という人間の本質により近く迫ることになるだろうから」 その醜い女性とは音楽の趣味が合いかなり親しくなるが、「僕」の妻は、夫と彼女が性的な関係を結ぶかもしれないというような疑念は全く抱いていない。「それは彼女の醜さがもたらしたなによりの恩典だった」しかし僕が彼女と寝なかったのは、と話は展開してゆく。もう一人、若い頃に出会ったブスの女性は「容姿の優れない女の子」と記されている。容姿が優れた女性は似通っているが、醜い女性はそれぞれ。語り手の「僕」は、ブスを慮らなくてはいけないという既成概念を持たない自由な人なのかもしれない。本質が重要。この話が引っかかってしまう自分のほうが、かえって既成概念に縛られているのでは、と感じた。それはともかく読後、シューマンの「謝肉祭」に手が伸びるのはどうしようもなかった。