y o m u : n e l

ヨムヨムエブリデイ

タータンチェック

慌ただしい週末だった。浴槽に水を溜めとけ!ケータイ充電しとけ!食料を確保しとけ!窓に養生テープを貼っとけ!ペーター・ハントケ!に振り回されてバタバタしていたら、台風が凄まじい威力であちこち傷めつけながら通り過ぎていった。しかも台風と地震のダブルパンチ。夏の台風はフェーン現象で不快な暑さを連れてくるが、今回のは西脇順三郎の「秋」のように起きるとすんなり、明朝はもう秋だ、になっていた。Tシャツ一枚では肌寒くて、パーカを羽織る。じんわり沁みる熱いコーヒー。
一日、台風被害のニュース映像を見て沈んでいた気分もラグビーの試合でやや上がり(単純)、買物帰りに見上げた夜空にはピカピカ輝く月。

ラグビーの稲垣選手が試合後のインタビューで「台風で被災した方々にラグビーで元気を取り戻していただきたい、そういう気持ちを持って試合に取り組みました」と答えていたのが印象に残った。こういう場面では必ず「元気(勇気)を与えたい」発言が飛び出し、「元気などというものはそう簡単に与えたりもらったりできるのかボケ!お前は何様だ!」と「元気を与える」警察が笛を吹きながらすっ飛んでくるものだが、この稲垣選手の言い回しには、「元気を与える」警察の勢いも少し鈍るのではないだろうか。言ってる内容は変わらないのだけれども。
あと、日本のバレーボールのユニフォームで[サロンパス]のロゴが貼られている肩のあたりや襟の裏や袖口や胸元にタータンチェックがあしらわれたスコットランドのユニフォームが抜群に洒落ていた。

あっという間に過ぎたようでもあり、ものすごく長かったような気もしたこの連休。あーあ、明日はまたブルーマンデーかぁと思っていたら、火曜日だった。

「~ほか」

なにかやっと、10月らしいスカッとした秋晴れ。昼休みATMに行ったついでにコンビニでコーヒーを買い、しばらくベンチでぼーっと過ごす。いい季節だなとしみじみしていたが、週末は台風が直撃っぽい。

文章読本のたぐいを読んでいると「漢字を適度にひらがなに開いて読みやすくする」なんてことが書かれているのだけれども、自分は、やたらひらがなを多用した文章が昔から苦手で、苦手な肉の脂身が物理的に喉を通っていかないのと同じで、こればっかりは自分ではどうしようもない。著者のルールにより、漢字、ひらがな、カタカナが巧みに使い分けられていながらも、読んでいる最中にそれを全く意識させないような文章が好きだ。というようなことを町屋良平『愛が嫌い』を読みながら考えていた。

  • みえているものをみえているということも、じぶんではよくわからない。(p.7)
  • ふだんかんたんに記憶をおもいだせるつもりでいたけれど、だれかになにかをいわれて、そのことばにつられてむりやりおもいだしているだけだ。(p.58)

ああ、こ、これは無理かも、と何度も本を閉じそうになる。思考の4割ぐらいが「ひらがな!」に占められ、残った6割で読み続け読み終えた。結局読んでしまったじゃないか。無理なものはどうしても無理だから、読み続けられたってことは、イラッとするのを含めて町屋良平の小説を読むという行為を楽しんでいたのかもしれない。ふにゃふにゃして妙にイラッとさせられる主人公のキャラクターに合っている気もしてきて、すべて計算済なのだろう。
前にジュンク堂かどこかで貰ってきた町屋良平の選書フェア目録がよくて、「作家の読書道」も面白かった。偏愛本の書評集とか読んでみたいが読書記録とかつけているのかと訊かれ、「感想は記していないです。昔は書いていたんですけれど、読み返すとすごく、調子に乗ってるなって思って」と答えるところなんかいいなと思った。

文學界」11月号のエイミーよいしょ祭りを読む。「十九人の心に響いた恋愛にまつわる一節」に町屋良平も参加しているのだけど、表紙に列記された名前のなかには入っていなくて「~ほか」扱いなので、こういう序列では下っ端のほうだとわかる。「~ほか」、皮が破れるほうの餃子を連想してしまう。

左手

A Manual for Cleaning Women: Selected Stories掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集
ルシア・ベルリンの本を検索していたら、Picadorから出たペーパーバック版の表紙が載っていたのだけど、これタバコを持った左手が入っているとなしでは大違いだと思う。左手のおかげで、いかす度1000%アップ。「タバコをたてつづけに二箱吸ったりするのよ」という文章も小説にでてくるが、この左手の表情に、ルシアのタフさ、ナイーブさなどすべてが凝縮されている気がする。かっこいい左手。

クロワッサン

10月。あれやこれやでバッタバタ。今日は半額の日だよとK君に誘われお昼はうどん。うどんも値上がり。朝晩はひんやりするが昼間はまだ暑くて、うどんのせいで汗が止まらず、ゆでだこのような顔で噴き出す汗を拭いながらふうふう戻ると「あんたら、何があった?」と驚かれる。

北村薫のうた合わせ百人一首を少しずつ読んでいると(中身が濃いのでゆっくりとしか読めない)、いいなと思う歌がいくつかでてくる。杉崎恒夫の

気の付かないほどの悲しみある日にはクロワッサンの空気を食べる

もその中のひとつだが、新刊の文庫本の表紙にも載せられているので有名な歌なのかもしれない。短歌には興味がないこともないがほとんど無知で、穂村弘東直子も歌集よりもエッセイを好んで読む。杉崎恒夫がどういう人かすら知らず(2009年に90歳で死去している)、この人の他の歌も読んでみたいと思い、とりあえず図書館から『パン屋のパンセ』(六花書林)を借りてくる。軽やかで風通しがよくとても好きな感じ。ふと荒川洋治の「会っていた」というエッセイが頭に浮かんだ。

 一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分のなかに何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさにいえば何か「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。それはそのときのものとはならないにしても、そのあとのその人のなかにひきつがれるものだから軽くはない。流されもしない。(中略)最初にふれているのだ。そのときは気づかない。二つめあたりにふれたとき、ふれたと感じるが、実はその前に、与えられているのだ。読書とはいつも、そういうものである。 『忘れられる過去』朝日文庫版(p.17)

高原英理編『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』(ちくま文庫)をはじめ色んな短歌アンソロジーや入門書で杉崎恒夫の歌にふれていた。ふれまくっていながら、今回初めてその歌集を手にすることとなった。つくづくタイミングって不思議だと思う。梅田蔦屋書店の「はじめての詩歌フェア」で岡野大嗣のとっておきの一冊がこの『パン屋のパンセ』だった。この好きな人がつながってる感も、なんとなく嬉しい。

皮が破れるほうの餃子

くっついた餃子と餃子をはがすとき皮が破れるほうの餃子だ


雑誌の隙間を埋める1~2ページの連載コラムが好きで、週刊誌、文芸誌、ファッション誌などそれぞれの雑誌にそれぞれ贔屓の連載がある。新しいところでは「文學界」の松浦寿輝の「遊歩遊心」なんかちょっと楽しみ。「本の雑誌」の石川美南「行間の広い本棚」も好きで、この数ヶ月の間にここで紹介された櫻木みわ『うつくしい繭』や神田茜『母のあしおと』を読みたくなり実際に読んだりもしたので、かなり打率が高いというか相性がいい連載と感じる。今月号は相原かろの歌集『浜竹』(青磁社)を取り上げ、そこで引用されていたのが上の短歌。こういうのに弱いんだな。ただのあるあるネタのようだけれど、もし自分が餃子だったら絶対皮が破れるほうだし、妙に気に入ってずっと頭の中で反芻している。

通勤読書は北村薫『うた合わせ 北村薫百人一首』(新潮社)。ブックオフかどこかで買ってそのままになっていたが、もうすぐ文庫化されるようなので悔しくて急いで読む。タイトルから最果タヒ百人一首という感情』のような百人一首を題材にしたものかと思い込んでいたら違った。色んな人の短歌と北村薫の解釈が読めて、散文好きの短歌シロートにはありがたい一冊。しかも最初に石川美南の歌が取り上げられていて、あ、こんなところに石川さん、と思った。